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銀髪・白髪で広がる可能性

Written by 中野 香織July 07,2016

みなさん、こんにちは。七夕ですね。ロマンティックな計画がある方もそうでない方も、「年に一度」がめぐりくる貴さ、ありがたさに思いを馳せたい日であります。

私にも年に一度だけ七夕前後に会って、食事をしながら近況報告をしあう友人がいます。残念ながら、織姫&彦星のような色っぽい関係ではまったくないのですが、時間の経過で変わること、変わらないことを確認し、来年また楽しい近況報告をするためにはどのように生きていくのがいいのかを考えさせられる、とても意義深い日になっています。

時間の経過で変わること。その中の一つに「髪色」があります。強引に話題をそちらに振りますが。個人差は大きくありますが、男性の場合、早い方だと30歳少し前から白いものが混じり始め、40代後半で白髪の割合が勝っていく方が多いようです。この自然現象とどのようにつきあっていくのか、その態度にその人らしい考え方が見えるものです。

たとえば、前々回、ご紹介した「AMETORA」の著者、デーヴィッド・マークスは、髪が黒いときはスーツには関心がなく、Tシャツにジーンズのストリート系のスタイルばかりだったそうです。しかし、髪に白いものが混じり始めてから、それが似合わなくなったと悟り、テイラードジャケットやスーツを基本にする「きちんとした」スタイルに目覚めていったそうです。見た目の変化に合わせて自分のテイストも変えていき、新しいファッションを開拓する。白髪化を老化ではなく「自分の可能性を広げてくれるチャンス」と考えるわけですね。

実際、スーツスタイルは、グレーヘアのほうがむしろサマになるというところがあります。さらに髪が真っ白になると、パステルカラーや淡い色のジャケットも映えたりして、なるほどたしかに、ファッションの可能性は広がります。髪が薄くなる場合も同様で、むしろボウタイが似合いやすくなるとか、個性的な柄もくどくなく見せることができるなど、黒髪時代にはできなかった挑戦にも手を伸ばしやすくなるのではないかと思います。

いずれにせよ、もっともみっともなく見えてしまうのは、失われていく「若さ」ないし「過去」にしがみつくこと。それに気づいた人の中には、時を速めるという暴挙?に出る人もいます。たとえば6月30日付の朝日新聞のコラムは、政治家の細野豪志さんが、髪をあえて白く染めているという話を紹介していました。若作りにしがみつく未熟さを卒業し、むしろ次の段階へ進むのだという意思表示として、白く染めていらっしゃるとのことです。たしかに、まだ精悍さが残る顔に白髪のミスマッチは、はっと人目をひき、むしろ魅力的です。吉川晃司の銀髪が与えるインパクト、ニック・ウースターの銀髪が放つ迫力に通じるものを感じさせます。

nick wooster.jpg                                            (ニック・ウースター。Photo from official facebook page of Nick Wooster)


ここで連想が18世紀ロココ時代に飛びます。当時、男性も女性も、みな髪を白くしていました。結髪、またはかつらの上から、小麦粉を主な原料とする髪粉をシュッシュとふりかけて、白くするのです。

wig-powder.jpgなぜそんなことをしたのか? パステルカラーが主流のロココの衣裳には、白い髪のほうが似合うという美的な理由がまず考えられます。そしてもう一つ有力な説が、「みな同じ高齢のように見せるため」という理由です。「みな同じように若く見せるために黒っぽく染める」現代とは、発想が逆なのですね。美の価値基準が、高齢にあるわけです。みな白髪にし、経験を重ねた男女のふりして、恋愛やフラーティングを楽しむ。そこに生涯恋愛至上主義者たちの究極の智恵を見る思いがします。

Comte_d'Angiviller.jpg(Portrait of Chales Claude Flahaut de la Billarderie, comte d'Angiviller 1730-1810. 1763年ごろに描かれた肖像画で、絵の中の伯爵はまだ33歳前後。Photo from Wikimedia Public Domain)


とはいえ、ほかならぬこの髪粉が、フランス革命の遠因となります。「パンを食べることもできない」お腹をすかせた庶民が、「パンの原料となる小麦粉をおしゃれのために使っている」貴族に対して怒りを覚えるのは、当然のことですね。そんな愚かなことをしてまでも「その時代が考える美」を体現するために労力を費やした人々には、嘲笑どころか、愛おしさすら覚えます。

時は否応なく過ぎ去り、髪の色も量も変わり、何が美しくて何がそうではないのかという基準も移り変わります。過ぎ去るものにしがみつくのではなく、変化していくこと、変化を受けとめながら変化とどう付き合っていくのかを見せることに、気持ちをシフトしていきたいものです。


実際、変化していくその時その瞬間、すなわち「今」を生きている人の生命感、フレッシュ感は、無自覚な若さそのものよりもはるかに魅力的であるように、私には見えます。

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