FAIRFAX COLLECTIVE &ease fairfax 胸元CLUB

BLOG

私が殺したリー・モーガン

Written by 伊知地 伸夫December 28,2017

私が殺したリーモーガン

「私が殺したリーモーガン」の画像検索結果


私が殺したモーガンを観に行ってきました。
1973年2月19日、雪が降りしきる未明。
イーストビレッジのジャズクラブ『スラッグス』で
夫人に撃たれて死亡したリーモーガン。
夫人ヘレン モーガンの亡くなる前の年のインタビューで
進行するドキュメンタリー映画です。
「私が殺したリーモーガン」の画像検索結果
「私が殺したリーモーガン」の画像検索結果
「私が殺したリーモーガン」の画像検索結果

18歳でブルーノートからデビューしたリーモーガンは、
クリフォード ブラウンの再来と言われ、
ジャズメッセンジャーズ、自身のグループで
数多くのレコードを発表してきました。
ファッションにもうるさく、常にオシャレに気を配っていました。

「リーモーガン ファッション」の画像検索結果

「リーモーガン ファッション」の画像検索結果  

「リーモーガン ファッション」の画像検索結果

1963年には空前の大ヒットになったザ サイドワインダーを発表。

「リーモーガン ファッション」の画像検索結果
引っ張りだこだった彼でしたが、大金を掴んだが使い道はヘロイン、
薬物や数多くの仕事をすっぽかしたりして、同業者から全く相手にされなくなる。

どん底にまで落ち込み、廃人同然のホームレス状態になっていた彼を再び天才トランペッター、
ひとりの人間として、立ち直させたのがひと回り年上のヘレンでした。
ヘレンは彼に愛情注ぎ、モーガンを誠心誠意支え続けました。

仕事も充実し、離れていった仲間たちもモーガンの周りに戻ってきて
順調に再起を果たしていた最中、別の女性が原因で、二人の関係がうまくいかなくなり、
護身用にとモーガンが買ってくれた拳銃で彼の胸に発砲してしまいます。
外は大雪のマンハッタン、救急車が通報から一時間近く経ってからの到着。
もっと早く来ていたら、もしかしたら生きていたかも知れません。

 「マンハッタン1970年雪」の画像検索結果
「私が殺したリーモーガン」の画像検索結果

 「私が殺したリーモーガン」の画像検索結果
              (写真は全て引用)

 

最後にヘレンはモーガンではなく、
私を撃っていたら、
どんなに良かったか。と言ってインタビューを終わります。

BLUE NOTEの逆襲

Written by 伊知地 伸夫December 13,2017

BLUE NOTEの逆襲

WOWOWでブルーノートの逆襲というドキュメンタリーを放送していました。
僕もここ最近のBlue Noteは凄いと感じていたので、非常に楽しめました。
今回はこの番組を紹介しつつ、Blue Noteについてお話しを進めていきます。

今年で創設78周年を迎えたBlue Noteは2012年に現役ミュージシャンでプロデューサーの
ドン ウォズを社長に迎えて快進撃を続けています。

ドン ウォズ
「ドンウォズ」の画像検索結果
 
ドン ウォズはローリングストーンズ、ボブ ディランなど大物ミュージシャンを
プロデュースし、手がけたアルバムがグラミー賞最優秀アルバム受賞したり、
自身でもプロデューサー賞を受賞している大物プロデューサーです。
ロック畑のドンが何故Blue Noteの社長になったか?
ドンは当時無名だったジャズシンガーのグレゴリーポーターのライブを観て一目惚れして、
友人のキャピタルレコード社長に直ぐに契約するべきだと進言したことがきっかけでした。

グレゴリー ポーター
「グレゴリーポーター」の画像検索結果

当時キャピタルレコード傘下のBlue Noteはカタログやグッズ販売の部門だけを残して
新しいアルバムの制作をやめる方向だったそうです。
それを避けたかった友人が、お前が社長になってグレゴリーポーターを引っ張って来いと言い、
ドンが了承したのが始まりでした。

LUQUID SPIRIT/ グレゴリー ポーター
2013年グラミー賞 最優秀ジャズボーカルアルバム受賞。
ジャズ界では異例の50万枚突破。
「グレゴリーポーター」の画像検索結果

[WIREDより、ドンのインタビュー]
Blue Note Recordsの創始者のアルフレッド・ライオンが1939年に書いたステイトメントが残っている。
彼はそこでBlue Noteのミッションを「オーセンティックな音楽を世に送り出すこと」と書いている。
ぼくが21世紀のいまBlue Noteにおいてやるべきは、まさにそれだと思う。
60年代の音楽を再生産することじゃなくてね。
そうやって果敢に新しいチャレンジをしたおかげか、2012年の売り上げは前年比で60%も伸びたんだ。

Blue Noteは創始者、アルフレッド ライオンとフランシス ウルフが
1939年に作ったジャズレーベルです。

アルフレッド ライオンとフランシス ウルフ
「アルフレッド ライオン」の画像検索結果

アルフレッド ライオンとソニークラーク
COOL STRUTTIN'の打ち合わせ

「アルフレッド ライオン」の画像検索結果

 
1986年初来日
第一回マウントフジ ジャズフェスティバル

「アルフレッド ライオン」の画像検索結果

 
ライオンは熱狂的なジャズファンで最初は貸しスタジオで
個人的な楽しみのつもりでレコーディングをし、数枚プレスして終わるつもりだったが、
あまりに出来が良かったので市販することにしたのが始まりでした。
ライオンは私財を投げ打って、特に人種差別をうけていた黒人の無名のミュージシャンを
次々と起用してアルバムを作りました。
ライオン自身もドイツ系ユダヤ人でナチスドイツの迫害を逃れて
アメリカに移住しています。
セロニアス モンク、ホレス シルバー、ハンク モブレー、ルー ドナルドソンなどの
初リーダーアルバムを作り彼らを育てあげていきました。
商業的にはかなり厳しくて、ミュージシャンと同じような生活を繰り返していて、
とうとう健康を害してしまい、自身の分身でもあったBlue Noteを
1966年にリバティレコードに売却しました。
「リバティレコード」の画像検索結果

ライオンは何十年間もその時代ごとに一番革命的なアーティストと契約してきた。
我々もそれを心がけていかなくてはならない。 (ドン談)

ドンが就任後、彼はウエイン ショーターをBlue Noteに呼び戻し、
ジャズの王道を歩み続けることを宣言。
一方ではヒップホップ世代のホセ ジェームス、ロバート グラスパー、
日本人トランペッター黒田卓也など新しいミュージシャンと次々と契約。
Blue Noteの最大の武器は本物の才能を見抜く感性で、
ドンはジャンルの壁を超えたロバートグラスパーの才能を引き出し、
ジャズミュージシャンで初めてR&B部門でグラミー賞を受賞させ、ジャズの可能性を広げました。

ウェイン ショーター
「ウェイン ショーター」の画像検索結果
 

ホセ ジェームズ
「ホセ ジェームス」の画像検索結果
 

BLACK RADIO/ ロバート グラスパー
アカデミー賞受賞作品
「ロバート グラスパー」の画像検索結果

ドンもライオンと同様に人種差別に偏見を持っていて、
パナマ人の父を持つホセ ジェームス、日本人の黒田卓也などと
契約するのも肌の色ではなく、彼らに本当の才能を見抜いたからです。

まだまだBlue Noteについて書くことが尽きないのですが、
最後に熱烈なジャズファンだった創業者フレデリック ライオンの意思を持った
ドン ウォズが21世紀の新しいBlue Noteを全世界の音楽ファンを魅了していくことと思います。
「ドン ウォズ」の画像検索結果
 

もっとも大事なのは、常にファンであること。(ドン 談)
            (画像、インタビューは引用)

1