BLOG

伊知地 伸夫

伊知地 伸夫

”FAIRFAX” TRAD部門ディレクター

”FAIRFAX” TRAD部門のデザインを長年にわたり担当。
アメトラ的着こなしをモダンに着崩す手法の師匠的存在。
また、中学時代から嵌まっているJAZZ、特に50’s 60’sのビンテージレコードを数多くストック。
今回、その知識の深さを教授していただきます。

ERIC DOLPHY

Writed by 伊知地 伸夫May 03,2018

「エリック ドルフィー」の画像検索結果

「ERIC DOLPHY」の画像検索結果

ジャズを聴き始めて以来、ずっと好きでいつ聴いても新鮮で
飽きが来ないミュージシャンの一人がエリック ドルフィーです。
昔、映画館で観た映画『真夏の夜のジャズ』で
チコ ハミルトン クインテットでフルートを奏でる
彼の姿に鳥肌が立つぐらい感動したものでした。
僕の時代はYouTubeもDVDも無く、
この映画で初めてドルフィーの演奏する姿を観ることが出来ました。
彼はとてもお洒落でグレースーツにラウンドカラーのピンホールシャーツ、
そして黒のニットタイ(スキニータイ)というスタイルでCOOLです。

「真夏の夜のジャズ eric dolphy」の画像検索結果

もちろんこの映画のアニタ オディのチャーミングな容姿も鳥肌ものですが。
「真夏の夜のジャズ eric dolphy」の画像検索結果

エリック ドルフィーはアルトサックス、バスクラリネット、フルートを
巧みに操るマルチプレイヤーです。
活躍した時期は50年代後半から62年ぐらいで1964年には亡くなってしまいました。
一般的には全く評価されない時期が続いていて、認められたのが彼の死後です。
当時、彼のスタイルが主流派とは違って、一歩先を行っていたからなんですが。
レコードでしか彼の事を知らない僕は実際は仕事が少なく、
貧しい生活が続いていたとは知りませんでした。
少しゆとりがあれば持病の糖尿病に気がついて治療をしていたかも知れません。
なんとか手助けをしたかったのですが
さすがの僕も当時6歳では彼のなんの役に立てませんでした。

他のミュージシャンのところでも書きましたが、
ジャズミュージシャンは生存していた時よりも、みんな死後に評価されることが多いです。
今ではたくさんののファンがいるのに、生前に評価されていたらと思うと悲しい限りです。

「eric dolphy」の画像検索結果
白のタブカラーシャーツに黒のニットタイのドルフィー。


50年代後半のJAZZはハードバップからだんだんとファンキージャズに人気が集まってきていて、
また一方ではオーネット コールマンを筆頭にFREE JAZZが出始めた時期でもあります。
その中でエリック ドルフィーはハードバップとフリージャズを
足して2で割ったようなスタイルと言えます。
ジャズの伝統を基本にしながら、新しいジャズを探究する姿勢が
60年に発表した初リーダーアルバム『アウトワード バウンド』で聴けます。

Outward Bound(初リーダーアルバム)
「ERIC DOLPHY」の画像検索結果
彼の吹くサックスは馬のいななきのようだと言われとても衝撃的です。
この頃はコンスタントにレコードを出したり、たくさんのアーティストの
レコーディングにも参加していて多忙な毎日でした。
彼のリーダーアルバムを買いあさり、有名なAT THE FIVE SPOTや
IN EUROPEなどたくさんのアルバムが今でも僕の愛聴盤になっています。
「ERIC DOLPHY」の画像検索結果

「ERIC DOLPHY」の画像検索結果
リーダーアルバム以外にもドルフィー好きが唸ってしまうアルバムがあります。
オリバーネルソンのブルースの真実、ケン マッキンタイヤーのルッキング アヘッド、
ジョージ ラッセルのエズセティックスなどで誰がリーダーか分からなくなるほど
ドルフィーが素晴らしいです。

オリバーネルソン ブルースの真実
「eric dolphy」の画像検索結果

ケン マッキンタイヤー ルッキング アヘッド
「eric dolphy参加アルバム」の画像検索結果

ジョージ ラッセル  エズセティックス
「ジョージ ラッセル piano」の画像検索結果

アメリカではなかなか認められなかった彼はヨーロッパに
活躍の場を求めたわけですが、そのヨーロッパで亡くなってしまいました。
もし生きて活動をしていたら、きっと成功していただろうと思いながら
好きなIN EUROPEを聴いています。
(写真は全て引用)



THE FINAL TOUR

Writed by 伊知地 伸夫April 11,2018

THE FINAL TOUR

非常に興味深いアルバムが発売されました。
タイトルがMILES DAVIS  &JOHN COLTRANE  THE FINAL TOURです。
このアルバムのタイトルからしてマイ ルスとコルトレーンの立場は同等になっていますが、
この当時はマイルスがリーダーで、あくまでもコルトレーンはサイドメンなのですが?
まぁ、そんな細かいことは気にしないでいいですかネ~。

「マイルスデイビス&ジョン コルトレーン」の画像検索結果

 
1960年春、マイルスとジョン コルトレーンの最後の共演(競演)の
ヨーロッパツアーを収録したアルバムです。
これ以降コルトレーンはマイルスグループを脱退し、
その後マイルスはモードジャズを追求し帝王になり、
コルトレーンは後に歴史的名作と評される「至上の愛」を発表、
コルトレーンワールドを作り上げていきます。

メンバーはモダンジャズ屈指の傑作「カインド オブ ブルー」の時の
黄金のクインテットと呼ばれたマイルス以下、ジョン コルトレーン、
ウィントン ケリー、ポール チェンバース、ジミーコブです。
ツアー5公演を収録した4枚組のこのアルバムには、
カインド オブ ブルーに収録されていたSO WHATが
なんと公演ごとに違うバージョンで4曲も入っているんです。
他にも多数異なるバージョンの曲が聴けます。
これらを聴き比べてみるのも面白いですよ。
同じ曲でも違うアプローチの仕方が聴けて興味深いです。
ラウンド ミッドナイト、オン グリーン ドルフィン ストリート、
ウォーキンなど定番曲ばかりで安心して聴けます。
「マイルスデイビス&ジョン コルトレーン the final tour」の画像検索結果

「マイルスデイビス&ジョン コルトレーン the final tour」の画像検索結果

Kind of Blue
「マイルスデイビス&ジョン コルトレーン the final tour」の画像検索結果
マイルスとコルトレーンは共に1930年生まれの
同い年でマイルスは若くしてメジャーと契約した大スター、
かたやコルトレーンはなかなか目が出なくて、
マイルスグループに誘ってもらってからの
彼の躍進は皆さんご存知のとおりです。
まだこのツアーの時はお互い離れ離れになるとは
思っていなかったでしょうから?、そのことを知っている僕には
このヨーロッパツアーのアルバムは非常に考え深いものがあります。
皆さんもそうは思いませんか?

コルトレーンはあくまでもサイドメンと最初に書きましたが、
このアルバムを聴いていると、決してマイルスに引けを取らないレベルまで
達しているように思います。
そしてお客さんの反応もすごくいいんです。
僕もこの場にいたかったなぁとつくづく思いました。


(写真は全て引用)


 

NINA SHIMONE

Writed by 伊知地 伸夫March 22,2018


ニーナ シモン

「nina simone」の画像検索結果

87年のリバイバルヒット
"my baby just cares for me"
この曲で彼女を知った人が多いと思います。
僕もその一人で87年にシャネルNo.5のTVCMで流れていた曲です。
リドリースコットが監督をした事で有名なCMですが、
この曲は実は彼女のデビューアルバムで
1958年リリースのLittle Girl Blueに収録されていた曲です。
約30年という年月を経て世界的にヒットした曲でした。
やっぱりシャネルの力は凄いですね。
ヨーロッパで細々と活動していた彼女も
この曲のおかげで復活出来ました。
僕もこの曲で彼女が好きになって以来、今でもよく聞いています。
ジャズにとらわれずポップス、ブルースなど
幅広いジャンルを取り入れてるので、
ジャズが難しいと思っている方でも、スムーズに聴けると思います。



What Happened、Miss Simone?(2015年)

「what happened nina simone」の画像検索結果


ドキュメンタリー映画「What Happened、Miss Simone?」を観て、
人種差別、黒人公民権運動、夫からのDV、自殺願望、
自身の娘へのDV、離婚、アフリカ移住、躁鬱病などの
凄まじい人生をこの映画から垣間見ることが出来ました。
彼女の曲にMississippi Goddamという曲がありますが
明るい曲調なので、まったく知らなかったのですが、
実は過激な歌で「ミシシッピよ、地獄に落ちろ」と歌っています。

ミシシッピ州で白人至上主義らによって暗殺された黒人活動家や
教会に仕掛けられた爆弾によって亡くなった4人の少女の事件を歌った曲でした。
キング牧師、マルコムXらと親交があった彼女は
これを機にどんどんと過激になっていき、歌には政治的なメッセージが多くなり
音楽業界から敬遠されてしまいます。

デビューアルバム  Little Girl Blue
「ニーナシモン」の画像検索結果
このアルバムはニーナ自身のピアノと
ジミーボンド(ベース)、アルバート ヒース(ドラム)のトリオでの録音。
表題曲のLittle Girl Blueを始め、I LoveYou Porgy(ビルボード18位)、
My Baby Just Cares For Meなどの名曲を収録。
魅力たっぷりなニーナの低く奥深い声が聴けます。
そして時折聴こえるクラシック的なピアノアプローチがいいんです。
彼女は4歳の時からクラシックピアノを習っていて、
夢は黒人初の女性クラシックピアニストでした。

「ニーナシモン」の画像検索結果
「ニーナシモン」の画像検索結果
「ニーナシモン」の画像検索結果

「ニーナシモン」の画像検索結果

ニーナ シモンの意思は現代にも受け継がれていて
少し前ですが、ローリン ヒルとロバート グラスパーがプロデュースを務めた
「Nina Revisited...A Tribute to Nina Simone」を是非とも聴いて頂きたいです。
ローリン ヒルが5曲も参加していて、ニーナに負けないくらい奥深いです。
アッシャーが歌うMy Baby Just Csres For Meも一味違っていいですよ。
「ニーナシモン」の画像検索結果

「ニーナシモン」の画像検索結果
       (写真は全て引用)


HANK MOBLEY

Writed by 伊知地 伸夫March 01,2018

今回は僕の大好きなテナーサックス奏者の
ハンクモブレーを紹介します。

50年代のハードバップシーンで活躍し、
ハードバップの申し子と言われていたハンク モブレー。
ブルーノートは彼のリーダーアルバムを年4枚のペースで発表していました。

何故好きかと言うと、彼のテナーには優しくあったかさも感じとれたからだと思います。
非常に聴きやすく(初心者でも聴きやすいと思います)、歌うようなアドリブが格別です。
名曲も沢山残しておりますが、僕は60年代のRecado Bossa Nova (Dippin 1965年)や
Carolyn(No Room for Squares 1963年)などが大好きです。
皆さんも是非とも聴いてみて下さい。きっと気に入ると思います。

そして、そしてレコードジャケットのカッコ良さがピカ一なんです。
デジタル音源が全盛の今ですが、最近レコードが売れているニュースをよく耳にします。
僕の時代はレコードしか無くて、LPを買う決め手は
ジャケットのカッコ良さも重要な部分を占めていました。
レコードに針を落として音楽を聴きながらジャケットを眺め、
裏のライナーノーツを苦労して訳し、
またジャケットを眺めるの繰り返しでした。
そのひと時が僕にはたまらなくて、今では懐かしい思い出です。

ブルーノートのレコードジャケットは長きにわたり、
リード マイルスが作ってきて、レコードジャケット界に新風を吹き込みました。
その中でもハンクモブレーのアルバムジャケットはかなりカッコイイと思っています。
「ハンクモブレー」の画像検索結果

「ハンクモブレー」の画像検索結果

「ハンクモブレー」の画像検索結果

 「ハンクモブレー」の画像検索結果

「ハンクモブレー」の画像検索結果

 「ハンクモブレー」の画像検索結果
 30年ぐらい前でしょうか??
弊社の取引先の某都市銀行のショーウィンドウを
弊社のネクタイで飾ったことがありました。
その時のディスプレイにもハンクモブレーのレコードジャケットを
飾ったのを思い出します。

「ハンクモブレー」の画像検索結果

同じテナーサックスのソニーロリンズのような骨太さや、
ジョン コルトレーンのような豪快さが無く、
この2人に比べてテクニックがあったわけでもないですが、
何故か目が離せないというか、気になる存在でした。

60年代に入ってからはファンキー色が濃くなって、更に人気も上がっていきます。
彼のジャズに対してのまっすぐな気持ちは一向に揺らぐことがありませんでした。
                            (画像は全て引用)







JAMAICAN JAZZ

Writed by 伊知地 伸夫February 09,2018

JAMAICAN JAZZ

 某有名CDショップに市場調査?に行って来ました。
REGGAEコーナーでJAMAICAN JAZZ
の特集をしていました。
寒い日が続いているので
暑いお国が羨ましいですよね〜。


ここで今回はJAMAICAN JAZZについてです。
ジャマイカ出身のジャズミュージシャンは数多くいて、
あのウィントンケリーが有名です。
現在はピアノのモンティ アレキサンダー、
ギターのアーネスト ラングリンなどが活躍しています。
UKサックスのコートニーパインもジャマイカ系英国人(両親がジャマイカ出身)です。

WYNTON KELLY
「ウィントンケリー」の画像検索結果

ERNEST RANGLIN
「アーネストラングリン」の画像検索結果

MONTY ALEXANDER
「モンティアレキサンダー」の画像検索結果

COURTNEY PINE
「コートニーパイン CLOSER TO HOME」の画像検索結果


 レゲエはブラックミュージックがルーツで
ジャズ、リズム&ブルース、カリプソなどの要素を
ジャマイカのミュージシャンが取り入れて発展させました。
その中でもSKAが一番ジャズ的な要素を持っています。
ジャズも原点はブラックミュージックですので
意外と共通点があるんだなぁとひとりで納得していました。

 だいぶ前の話ですが、ブルーノート東京のライブを思い出しました。
その時のメンバーはアーネスト ラングリン(ギター)、
モンティ アレクサンダー(ピアノ)
ロビー シェークスピア(ベース)、スライ ダンバー(ドラム)でした。

IMG_2809.JPG
                     (BLUENOTE東京にて撮影)

 アーネスト ラングリンは1932年生まれ,
現在85歳の現役ミュージシャンで
SKAの誕生にも関わっているジャマイカのギター界のパイオニアです。
今もバリバリの現役で、南国ムードが漂う演奏をします。

「aアーネストラングリン」の画像検索結果
「アーネストラングリン」の画像検索結果      

モンティ アレクサンダーはオスカーピーターソンの
後継者と言われていて、モダンジャズはもちろんですが、
自身のアルバムでボブマーリーのトリュビュートを出したり
ジャズと自身のルーツを大切にしているピアニストです。
「モンティーアレキサンダー」の画像検索結果
「モンティーアレキサンダー」の画像検索結果       
スライ&ロビーはREGGAE界スーパースターでブラックウフル、
デニス ブラウン、アイザック ヘイズなどレゲエミュージシャンを
サポートしつつ、ミックジャガー、ボブ ディラン、ハービーハンコックなどと
競演した世界最強のリズムセクションです。

「スライ&ロビー」の画像検索結果
「sly&robbie」の画像検索結果
「ブラック ウフル」の画像検索結果   

このライブはジャズとレゲエ好きにはたまらないひと時でした。
スライ&ロビーは80年代によみうりランドでしか聴いたことがなかったので
ブルーノート東京での彼らの超ド迫力なドラム&ベースには圧倒されました。
アーネストの南国ムードが漂う熟練のギターワーク、
ンティの驚異のピアノテクニックで
僕を含めたこのライブハウスに来ていた人、
全てを魅了していました。

               (ジャケット写真は全て引用)

 

 

THE 3 SOUNDS

Writed by 伊知地 伸夫January 17,2018

ザ スリーサウンズ

アメリカ国内で1950年代後半から大人気だった
ザ スリーサウンズを紹介します。
「スリーサウンズ」の画像検索結果

僕自身は若い頃はまったく無視していて、
このピアノトリオを聴き始めたのはだいぶ後になってからです。

演奏スタイルがホテルのカクテルラウンジで聴いているような気がして、
ハードバップ派の僕には、おとなし過ぎて、なんか型にはめられていて
物足りなさを感じて避けて通っていました。
でも今ではこの雰囲気が心地よくなってきたのは、
僕自身が歳をとった証拠なんですが。

実はよく聴いてみると、ブルージーでファンキーなのです。
日本で人気が出始めたのも、かなり後だったと記憶しています。
日本のジャズファンは黙々と聴くタイプの人が多いので、
なかなか評価されなかったのだと思います。

彼らが凄いのは、結成してから約16年間メンバー交代をしていません。
ピアノのジーン ハリス、ベースのアンディ シンプキンス、ドラムのビル ダウディの
一体感のあるトリオ演奏が癖になります。


このトリオのデビュー作
1958年 introduthig 3 sounds

「スリーサウンズ」の画像検索結果
1961年 Moods
「スリーサウンズ」の画像検索結果
1964年 BLACK ORCHID
「the three sounds moods」の画像検索結果

数多くのアルバムをBlue Noteからリリースしました。

50年代のアメリカ、一般的にはジャズをラジオやジュークボックスで
聴いていた時代だからこそ、ザ スリーサウンズのBGM的なサウンドが受けていたようです。
ジャズファンだけでなく、ポップスファンにも人気を博し、
軽く流して聴けるサウンドがアメリカでは逆に受けたのでしょう。
若い人にはあまり馴染みがないと思いますが
日本でもジュークボックスが流行っていましたね。
いかにもアメリカ的な雰囲気がして、僕もよく洋楽を好んで聴いていました。
当時、日本でもジュークボックスでスリーサウンズが聴けていたら
間違いなくハマっていたでしょう。

(画像は全て引用)

私が殺したリー・モーガン

Writed by 伊知地 伸夫December 28,2017

私が殺したリーモーガン

「私が殺したリーモーガン」の画像検索結果


私が殺したモーガンを観に行ってきました。
1973年2月19日、雪が降りしきる未明。
イーストビレッジのジャズクラブ『スラッグス』で
夫人に撃たれて死亡したリーモーガン。
夫人ヘレン モーガンの亡くなる前の年のインタビューで
進行するドキュメンタリー映画です。
「私が殺したリーモーガン」の画像検索結果
「私が殺したリーモーガン」の画像検索結果
「私が殺したリーモーガン」の画像検索結果

18歳でブルーノートからデビューしたリーモーガンは、
クリフォード ブラウンの再来と言われ、
ジャズメッセンジャーズ、自身のグループで
数多くのレコードを発表してきました。
ファッションにもうるさく、常にオシャレに気を配っていました。

「リーモーガン ファッション」の画像検索結果

「リーモーガン ファッション」の画像検索結果  

「リーモーガン ファッション」の画像検索結果

1963年には空前の大ヒットになったザ サイドワインダーを発表。

「リーモーガン ファッション」の画像検索結果
引っ張りだこだった彼でしたが、大金を掴んだが使い道はヘロイン、
薬物や数多くの仕事をすっぽかしたりして、同業者から全く相手にされなくなる。

どん底にまで落ち込み、廃人同然のホームレス状態になっていた彼を再び天才トランペッター、
ひとりの人間として、立ち直させたのがひと回り年上のヘレンでした。
ヘレンは彼に愛情注ぎ、モーガンを誠心誠意支え続けました。

仕事も充実し、離れていった仲間たちもモーガンの周りに戻ってきて
順調に再起を果たしていた最中、別の女性が原因で、二人の関係がうまくいかなくなり、
護身用にとモーガンが買ってくれた拳銃で彼の胸に発砲してしまいます。
外は大雪のマンハッタン、救急車が通報から一時間近く経ってからの到着。
もっと早く来ていたら、もしかしたら生きていたかも知れません。

 「マンハッタン1970年雪」の画像検索結果
「私が殺したリーモーガン」の画像検索結果

 「私が殺したリーモーガン」の画像検索結果
              (写真は全て引用)

 

最後にヘレンはモーガンではなく、
私を撃っていたら、
どんなに良かったか。と言ってインタビューを終わります。

BLUE NOTEの逆襲

Writed by 伊知地 伸夫December 13,2017

BLUE NOTEの逆襲

WOWOWでブルーノートの逆襲というドキュメンタリーを放送していました。
僕もここ最近のBlue Noteは凄いと感じていたので、非常に楽しめました。
今回はこの番組を紹介しつつ、Blue Noteについてお話しを進めていきます。

今年で創設78周年を迎えたBlue Noteは2012年に現役ミュージシャンでプロデューサーの
ドン ウォズを社長に迎えて快進撃を続けています。

ドン ウォズ
「ドンウォズ」の画像検索結果
 
ドン ウォズはローリングストーンズ、ボブ ディランなど大物ミュージシャンを
プロデュースし、手がけたアルバムがグラミー賞最優秀アルバム受賞したり、
自身でもプロデューサー賞を受賞している大物プロデューサーです。
ロック畑のドンが何故Blue Noteの社長になったか?
ドンは当時無名だったジャズシンガーのグレゴリーポーターのライブを観て一目惚れして、
友人のキャピタルレコード社長に直ぐに契約するべきだと進言したことがきっかけでした。

グレゴリー ポーター
「グレゴリーポーター」の画像検索結果

当時キャピタルレコード傘下のBlue Noteはカタログやグッズ販売の部門だけを残して
新しいアルバムの制作をやめる方向だったそうです。
それを避けたかった友人が、お前が社長になってグレゴリーポーターを引っ張って来いと言い、
ドンが了承したのが始まりでした。

LUQUID SPIRIT/ グレゴリー ポーター
2013年グラミー賞 最優秀ジャズボーカルアルバム受賞。
ジャズ界では異例の50万枚突破。
「グレゴリーポーター」の画像検索結果

[WIREDより、ドンのインタビュー]
Blue Note Recordsの創始者のアルフレッド・ライオンが1939年に書いたステイトメントが残っている。
彼はそこでBlue Noteのミッションを「オーセンティックな音楽を世に送り出すこと」と書いている。
ぼくが21世紀のいまBlue Noteにおいてやるべきは、まさにそれだと思う。
60年代の音楽を再生産することじゃなくてね。
そうやって果敢に新しいチャレンジをしたおかげか、2012年の売り上げは前年比で60%も伸びたんだ。

Blue Noteは創始者、アルフレッド ライオンとフランシス ウルフが
1939年に作ったジャズレーベルです。

アルフレッド ライオンとフランシス ウルフ
「アルフレッド ライオン」の画像検索結果

アルフレッド ライオンとソニークラーク
COOL STRUTTIN'の打ち合わせ

「アルフレッド ライオン」の画像検索結果

 
1986年初来日
第一回マウントフジ ジャズフェスティバル

「アルフレッド ライオン」の画像検索結果

 
ライオンは熱狂的なジャズファンで最初は貸しスタジオで
個人的な楽しみのつもりでレコーディングをし、数枚プレスして終わるつもりだったが、
あまりに出来が良かったので市販することにしたのが始まりでした。
ライオンは私財を投げ打って、特に人種差別をうけていた黒人の無名のミュージシャンを
次々と起用してアルバムを作りました。
ライオン自身もドイツ系ユダヤ人でナチスドイツの迫害を逃れて
アメリカに移住しています。
セロニアス モンク、ホレス シルバー、ハンク モブレー、ルー ドナルドソンなどの
初リーダーアルバムを作り彼らを育てあげていきました。
商業的にはかなり厳しくて、ミュージシャンと同じような生活を繰り返していて、
とうとう健康を害してしまい、自身の分身でもあったBlue Noteを
1966年にリバティレコードに売却しました。
「リバティレコード」の画像検索結果

ライオンは何十年間もその時代ごとに一番革命的なアーティストと契約してきた。
我々もそれを心がけていかなくてはならない。 (ドン談)

ドンが就任後、彼はウエイン ショーターをBlue Noteに呼び戻し、
ジャズの王道を歩み続けることを宣言。
一方ではヒップホップ世代のホセ ジェームス、ロバート グラスパー、
日本人トランペッター黒田卓也など新しいミュージシャンと次々と契約。
Blue Noteの最大の武器は本物の才能を見抜く感性で、
ドンはジャンルの壁を超えたロバートグラスパーの才能を引き出し、
ジャズミュージシャンで初めてR&B部門でグラミー賞を受賞させ、ジャズの可能性を広げました。

ウェイン ショーター
「ウェイン ショーター」の画像検索結果
 

ホセ ジェームズ
「ホセ ジェームス」の画像検索結果
 

BLACK RADIO/ ロバート グラスパー
アカデミー賞受賞作品
「ロバート グラスパー」の画像検索結果

ドンもライオンと同様に人種差別に偏見を持っていて、
パナマ人の父を持つホセ ジェームス、日本人の黒田卓也などと
契約するのも肌の色ではなく、彼らに本当の才能を見抜いたからです。

まだまだBlue Noteについて書くことが尽きないのですが、
最後に熱烈なジャズファンだった創業者フレデリック ライオンの意思を持った
ドン ウォズが21世紀の新しいBlue Noteを全世界の音楽ファンを魅了していくことと思います。
「ドン ウォズ」の画像検索結果
 

もっとも大事なのは、常にファンであること。(ドン 談)
            (画像、インタビューは引用)

THELONIOUS MONK

Writed by 伊知地 伸夫November 22,2017

THELONIOUS MONK

2017年はセロニアス モンクの生誕100年の年です。
たくさんのミュージシャンがMONKのトリュビュートアルバムを発表しています。
「セロニアス・モンク画像」の画像検索結果

「セロニアス・モンク画像」の画像検索結果

彼は1917年生まれで40年代後半チャーリーパーカーや
ディジーガレスピーらと共にジャズの発展に尽くして、
50年代には他のミュージシャンにも多くの影響を与えました。

僕は初めてモンクを聴いた時はピアノが上手いのか下手なのか分からず戸惑いました。
個性が強すぎて、なかなか評価されない時代が続きます。
ピアノを弾くというより、鍵盤をパーカッションのように
叩くような弾き方や予測不可能なメロディが逆に魅力的です。

エピソードも沢山あります。一番有名なのはMILESのアルバム「 BAGS GROOVE」での共演で
MILESと喧嘩(事実は諸説ありますが)してテーマ曲のBAGS GROOVEでは
MILESのソロパートになったとたんにピアノを弾かなくなるMONKが聴けます。
同じ日の録音でMILES DAVIS&MODERN JAZZ GIANTSに入っている
The Man I Love(take2)ではピアノソロを途中で止めてしまい、
ベースのパーシーヒースとドラムのケニークラークの慌てている様子(僕の想像ですが)、
マイルスが助け船を出す姿が聴けてその場の緊張感が伝わってきます。

「miles davis」の画像検索結果
「miles davis」の画像検索結果

僕が一番最初に買ったモンクのレコードはThelonious himself (RIVERSIDE)で彼のソロアルバムです。
買ってから40年ぐらい経ちましたが、今だに愛聴盤の1枚になっています。(途中CDになりましたが)
このアルバムを聴いていると、何故か時間が止まっている感じがして、安らかな気持ちになります。

MILESグループを首になったコルトレーンと半年間ライブを行い作ったアルバム、
THELONIOUS MONK with JOHN COLTRAN (この共演でコルトレーンは自らのサウンドを手に入れた)や
ジョニーグリフィンとのファイブスポットでのライブアルバムなど数多くの人気盤がありますが、
このソロアルバムでは他の人々に気兼ねしないで、自由奔放にピアノを弾きまくっているMONKがいます。
やっとこの頃から評価が高まり始めて行きます。
「セロニアス・モンク画像」の画像検索結果
「セロニアス・モンク画像」の画像検索結果
「セロニアス・モンク画像」の画像検索結果

1964年にはTIMEの表紙まで飾っています。
「セロニアス・モンク TIME表紙」の画像検索結果
「セロニアス・モンク TIME表紙」の画像検索結果
かねてから奇行が目立っていましたが、晩年は躁鬱病にかかり
70年代前半には活動をやめてしまいました。
82年に脳梗塞で亡くなるまで数回しか演奏をしなかったそうですが、
彼の楽曲は今でも沢山のミュージシャンに演奏されています。

MONK's Playhouse (Various Artists)
「セロニアス・モンク  WONK」の画像検索結果
山中 千尋
「セロニアス・モンク  山中千尋」の画像検索結果
JOHN BEASLEY
「セロニアス・モンク  山中千尋」の画像検索結果

       (写真は全て引用)

25歳で逝った天才

Writed by 伊知地 伸夫November 03,2017

クリフォード ブラウン

「クリフォードブラウン」の画像検索結果

テナーサックス奏者、作曲家ベニーゴルソンの作品に
I Remember Cliffordと言う曲があります。
この曲は25歳で亡くなった天才トランぺッター、クリフォード ブラウンを偲んで
ベニー ゴルソンが作曲したバラードです。
ベニーゴルソンとリーモーガンがブルーノートに残したアルバム LEE MORGAN vol.3で
聴くことができ、リーモーガンの吹く悲しく切ないメロディが心に響く名曲中の名曲です。

1956年、マックスローチとコンボを組み活躍して最中の事故で
同僚のピアニスト、リッチーパウエルとその妻と3人で公演地に向かう途中の自動車事故で即死でした。
デビューが1952年ですから、たったの4年しか活躍していないのに
ブルーノート、エマーシー(マーキュリー)などに沢山のアルバムを残しました。
「クリフォードブラウン」の画像検索結果
クリフォード ブラウンは天才と言う言葉がぴったりなトランぺッターです。
幅広い音域、天才的なテクニック、歌心のあるアドリブ、そして練習熱心で
誰からも愛される温厚な性格だったそうです。
ブラウニーと言う愛称で呼ばれていた彼はジャズミュージシャンに付き物の
ドラッグにもまったく縁がない真面目な人でした。
あのMILESもブラウニーに一目置いている存在でした。

エマーシーから出ているマックスローチとの双頭コンボでのブラウニーのスリリングな
トランペットとマックスローチのダイナミックなドラムは天下一品です。
「クリフォードブラウン」の画像検索結果
女性ボーカルとも共演していてヘレン メリルやサラ ボーンと
名盤を残しています。
「クリフォードブラウン」の画像検索結果
「クリフォードブラウン」の画像検索結果
お馴染み、ヘレン メリルのYou'd Be So Nice Come Home To、
サラ ボーンのLullaby of Birdlandの聴けるこれらのアルバムでは
ブラウニーのサポートに徹した控えめな演奏とソロになるとブラウニー節が
全編に響き渡っています。
「クリフォードブラウン」の画像検索結果
仮にクリフォード ブラウンが事故死していなかったら
ジャズ界は大きく変わっていただろうと言われています。
天才トランぺッター、クリフォード ブラウンは永遠に多くの人に
愛され続けて行くことでしょう。
(写真は全て引用です)

Blogger

中野 香織

エッセイスト/服飾史家/
明治大学特任教授

吉田 秀夫

”盆栽自転車” 代表

長谷川 裕也

"BOOT BLACK JAPAN" 代表

山本 祐平

”テーラーCAID” 代表

伊知地 伸夫

”FAIRFAX” TRAD部門ディレクター

慶伊 道彦

”FAIRFAX” 代表取締役

Recent entries

Monthly archive

1  2